卒業生インタビュー

このページでは様々な業界で活躍する卒業生を紹介しています。

※所属や肩書はインタビューや寄稿当時のものです。

JALの翼に夢を乗せて

空港でパイロットの制服に身を包み、さっそうと歩く姿を見て「カッコいい!」と思った経験を持つ人は多いのではないだろうか。そんな憧れの職業への夢を実現させた大瀬拓人さん。会う前から「さわやかな体育会系のナイスガイ」だと聞いてはいたが、誠実さと責任感の強さ、ひたむきさがプラスされ、好感度は予想を遥かに上回った。副操縦士としてデビューして今年の3月で2年。安全な空の旅を約束するために、学生時代にサッカーで鍛えた精神と体力を武器に、JALの翼できょうも夢を運ぶ。

20220124 oboginterview ose

おおせ・たくと。1991(平成3)年11月5日、鹿児島県生まれ。鹿児島県立鹿児島中央高等学校から鹿屋体育大学スポーツ総合課程に進学。2014年3月、卒業。同年12月、航空大学校入校。2017年10月、日本航空に入社。地上勤務、運航乗務員訓練生を経て2020年3月より副操縦士。国際線も飛ぶボーイング767型機で、現在は北海道から沖縄まで国内線をメインに飛んでいる。

—鹿屋体育大学に進学しようと思ったのは?

大瀬 プロサッカー選手になりたかったからです。プロになるためにはスカウトマンの目に留まる必要がありますが、鹿屋体育大学のサッカー部は私が中高生の頃は天皇杯でJリーグを倒すほど強かったので、体育大に進学するのがプロになる近道だと思っていました。また、地元鹿児島の大学で活躍してプロになりたいという思いもありました。

—パイロットに進路変更したきっかけは?

大瀬 総理大臣杯全日本サッカートーナメントで関西遠征に行った際にJALの飛行機に乗って、そのとき初めてパイロットを職業として意識してカッコいいと思いました。調べてみたところ自分にもまだなれる可能性があることがわかり、3年生の全日本大学サッカー選手権大会(インカレ)まで出場した後、航空大学校に進学するためにTopチームからNIFS に移り、サッカーは4年生まで続けつつも勉強に集中するという形をとらせてもらいました。航空大学校の試験まであと半年ぐらいしかなく、研究棟2階の1番奥にあった添嶋裕嗣先生(令和3年3月で定年退職)のゼミ室で1日7~8時間ぐらい勉強したことを懐かしく思い出します。もともと勉強は苦手で大嫌いだったのですが、パイロットになりたいという具体的な目標ができてからは苦になりませんでした。プロサッカー選手よりもパイロットの魅力の方が上回った、という感じでした。

—パイロットになるまでに、どんな経験を積まれたのでしょう。

大瀬 航空大学校への入学時期は4回に分かれており、私の場合は鹿屋体育大学を2014年3月に卒業してその年の12月に宮崎の航空大学校へ入学しました。そこで座学を学び、帯広、宮崎、仙台での訓練を経て2年4カ月で卒業、第一志望だった日本航空の試験を受けて2017年10月に入社しました。入社後は1年間の地上勤務を経て訓練生になり、2020年3月に副操縦士に昇格しました。日本航空の場合、機長になるには副操縦士として最低10年の経験が必要だと言われています。

—パイロットとして大事にしていることは?

大瀬 あえて一つ挙げるとすれば、コミュニケーションです。不安に感じたり疑問に思ったりしたことは、積極的にキャプテンに確認するようにしています。また、パイロットは直接お客さまと接する機会がほとんどないので、お客さまに安心してお乗りいただけるようコックピットからアナウンスをすることも大事だと感じています。

—順風満帆な人生のように思えますが、ご自身ではどう感じていますか。

大瀬 うまくいくことといかないことが交互にやってくる、私の人生はその繰り返しです。幼稚園から始めたサッカーもそうで、高校時代は常にレギュラーでしたが、大学に入ったらなかなか試合にでられないことも多く、苦しい時期がありました。そんなときも練習を続けたことで全国大会に出場でき、3位という経験ができたのは今でも忘れられない思い出です。学生時代にスポーツを通して身についた判断力や先を予測する力、健康管理を含めた自己管理能力は今の仕事にも生かすことができていると感じています。

—最後に後輩たちに向けてメッセージをお願いします。

大瀬 大学生の時に父から教わった「人間万事塞翁が馬」ということわざを紹介させてください。私自身、このことわざに救われて今日があります。人生の禍福は転々として予測できないことのたとえとして使われますが、今幸せを感じている人はそれにおごることなく自分を律して、つらい思いをしている人はそれが続くわけではなく必ず幸福がやってくるので、それを信じて努力してみてください。人生を振り返った時に、いい方向にきていると思える日がきっと訪れると思います。

(取材・文/西 みやび)

信頼されるクラフトマン

20211206 obinterview kamei

かめい・あきら。1970(昭和45)年2月15日生まれ。愛知県名古屋市出身。愛知県立惟信高校~鹿屋体育大学体育学部体育・スポーツ課程。1992(平成4)年3月卒業。
ミズノテクニクス株式会社山崎ランバード工場製造課 トップフォロー・リペア担当 班長

8月5日、東京オリンピック2020の札幌会場で亀井晶さんは各国の競歩の選手たちの足元をじっと見つめていた。スポーツメーカーミズノのシューズ専門クラフトマンとして日本代表の4人の選手一人一人の足に合わせた特別注文のシューズを作成してきただけに、海外の選手の足元もおのずと気になる。マラソンは厚底が主流となっているが、競歩はうす底でソールが良く曲がるものが主流だ。片足が必ず地面についていなくてはいけない競歩では、厚底は跳ねてしまうので効果的ではない。亀井さんは世界のトップアスリートの足元を見ながら自らの判断が間違っていないことを確認していた。

競歩の選手から寄せられる信頼は大きい。選手たちの要望に合わせ自分たちの経験をフルに生かして作ったシューズを一人につき4足手渡していた。同じように制作したはずのシューズでも結局その中から本番用として選ばれるのは1足だけ。その1足が選手の鍛え上げた肉体を支えて最大のパフォーマンスを引き出すのだ。東京オリンピックで日本の陸上競技で初のメダルとなった男子20キロ競歩、池田尚希選手の銀と山西利和選手の銅は亀井さんの努力の結晶でもあったと言っていいだろう。

「試合中は何か不都合が起きてしまわないかひやひやしています。終わったとたんにうれしいというよりもほっとするというのが正直なところです」

こう話す亀井さんの実直さと責任感はその表情に表れている。

名古屋出身の亀井さんが鹿屋体育大学に進んだのが1988年のこと。社会体育を専攻しながら陸上競技部の短距離やハードルに汗を流していた。鹿屋の夏は照り付ける太陽が海の反射を得て全てがまぶしい。トレーニングが終わって皆で海洋センターまで移動し、海で泳いだのがいい思い出だという。トレンディードラマが流行するバブル全盛期の時代、都会へのあこがれを少しばかり抱きながらも鹿屋での日々を満喫していた。1992年の卒業式が、初めて水野記念講堂で執り行われることとなり、列席された先代の水野会長に挨拶できたのがいい思い出だという。律儀さや人とのコミュニケーションを大切にしていく姿は当時から変わらない。

ミズノに就職してからしばらくは西日本の営業を担当していたが、その後シューズのクラフトマンとして抜擢され、兵庫県宍粟市にあるミズノの工場の一角にある工房に陣取るようになる。一般に市販されるラインで製造されるシューズとは異なり、一人一人のアスリートに合わせて足型をとり、裁断、縫製、成形を行って作る特注品製造の仕事だ。人工知能でなんでもやってしまう時代に、その作業は昔とほとんど変わらない手仕事となる。

「100人いれば脚の形は100通りです。さらに一人一人の要望はとても抽象的なんです」

一度手渡したシューズの履き心地を聞きながらよりよいシューズへと作り上げていく過程は容易ではない。選手は「この辺をちょっとだけ伸ばしてほしい」などとニュアンスで表現してくる。それを亀井さんは頭の中で数値化して要望を受け取っていく。このやり取りの中でクラフトマンと選手との信頼関係が作り上げられていくのだろう。

リオデジャネイロオリンピック4×100mリレーの銀メダリスト飯塚翔太のシューズを担当してきたのも亀井さんだ。様々な要望を聞き入れながら丹念に作り上げてきたシューズは五輪の本番用に最低2足は用意する。万が一盗難にあうことも視野に入れてというのだ。念には念を入れての準備に頭が下がる。

飯塚選手はこれまで折を見ては鹿屋体育大学のスポーツパフォーマンス研究センターを使って測定を行ってきた。しかし、コロナ禍にも見舞われたこともあり、亀井さんが同行する機会は残念ながら見送られてきた。コロナが落ち着いたらぜひスポーツパフォーマンス研究センターを見てみたいと言葉を弾ませる亀井さん。新たなプロフェッショナルの眼を持った亀井さんに、センターはどのように映るのだろうか。

これまでで最もうれしかったことは何かと聞くと意外な答えが返ってきた。特注シューズはトップアスリートだけではなく、一般の方向けにも直営店などで請け負うこともある。そうした折に年配の方のために作ったシューズが気に入ってもらえ、「もうこれ以外のシューズは履けませんよ。本当にありがとう」と言葉をかけてもらった時が人生で最もうれしかった瞬間だったという。アスリートへの責任感とはまた異なる喜び。人間の歩くという基本の行為を手助けできることを一番の喜びとして挙げる亀井さんの心もまた素敵だ。

(スポーツ文化ジャーナリスト 宮嶋 泰子)

「マスターズ甲子園」の生みの親

有言実行。火を噴く桜島以上に熱い想いを胸に秘め、スポーツマンらしくさわやかで礼儀正しく、常に謙虚で穏やかな姿勢を崩さない。全国の高校野球OB・OGが、性別・世代・甲子園出場の有無・元プロアマを問わず、出身高校別に同窓会チームを結成し、甲子園出場を目指す「マスターズ甲子園」。その開催を通じた生涯スポーツ推進プロジェクト研究グループの代表として、1期生で神戸大学大学院教授の長ケ原誠さんが今年第23回秩父宮記念スポーツ医・科学賞を受賞した。マスターズ甲子園は趣旨に賛同したシンガーソングライターの浜田省吾さんが大会テーマソングを提供し、重松清氏により小説化され、2015年には中井貴一さん主演で映画『アゲイン 28年目の甲子園』(東映)としても公開され、主題歌は浜田省吾さんが手掛けた。当時関係者が口にしたのは「長ケ原さんの人柄に動かされて」。この言葉がすべてを物語っている。

20210909 oboginterview tyougahara

ちょうがはら・まこと。1965(昭和40)年4月、鹿児島県生まれ。鶴丸高校、鹿屋体育大学、同大学院体育学研究科修士課程を修了後、同大学助手に。1992年、カナダへ留学。1998年7月、アルバータ大学大学院体育・レクリエーション学博士課程を修了。同年9月から同大学非常勤講師。1999年、神戸大学発達科学部講師。准教授を経て、2014年から同大学大学院人間発達環境学研究科教授。

—まずは「第23回秩父宮記念スポーツ医・科学賞」の受賞、おめでとうございます。

長ヶ原 今回の受賞はマスターズ甲子園をただイベントとしてやっているのではなく、これまでかかわってきた神戸大学の大学院生やゼミ生たちが研究テーマとして取り組んできたことが、教育成果として評価されたことをとてもうれしく思いました。昨年の第22回は田畑泉立命館大学教授が率いる研究グループの一員として、同じ1期生で残念ながら先月亡くなった荻田太先生らの受賞でした。田畑先生は鹿屋体育大学で教えていらしたので、田畑先生・荻田先生から続く鹿屋チームのバトンをつなげられたことも幸甚に思います。

—マスターズ甲子園の第1回大会は4県82校の参加だったそうですが、2019年の第16回大会では41都道府県677校の参加となるなど年々規模が拡大しています。

長ヶ原 高校時代に目指したあの舞台=甲子園を復活させることによって、人生の中にもう1回プレイボールがあってもいいのではと、野球部の部活動の同窓会で甲子園を目指すマスターズ甲子園。現役の高校生より先に先輩たちが甲子園に行くケースも出てきています。恐らく世界で1番大きな同窓会組織だと思いますが、あきらめの悪いおじさんたちがいかに多かったか、ということですね(笑)。

—大学時代で印象に残っていることは?

長ヶ原 スポーツを学問的に研究できるということで進学しましたが、全国からすごいメンバーが集まっており、寮も授業も楽しくて毎日のように刺激のシャワーを浴びていました。当時は野球場もなく、いろんなところに練習に行っていたのでジプシー球団と呼ばれ、寮までの道は草ぼうぼうの獣道で、陸上競技場をつくるために冬にアルバイトで1期生のみんなで芝生を植えたことを覚えています。

初代の江橋愼四郎学長が「パイオニア精神」という言葉をよく使われていましたが、体育大なのに英語は必修で、国際シンポジウムに参加するたびにカルチャーショックを受け、留学して語学を身に付けたいという気持ちになりました。人生で壁にぶつかったとき、恐らく卒業生は鹿屋で一生懸命頑張った原点を思い出すと思います。今年40周年を迎えますが、常に進化してきていることを実感できるのは、大学を支えてくださっている教職員のみなさんや大学に残っている卒業生のお陰です。

—カナダへ留学中だった1998年に400m陸上で参加された「ワールドマスターズゲームズ」。ご自身が役員を務めておられる「ワールドマスターズゲームズ2021関西」が、コロナによる1年延期で来年5月13日に開幕します。

長ヶ原 4年に1回開催されるワールドマスターズゲームズは、30歳以上であればだれでも複数種目にエントリーでき、だれもが主人公として参加できます。10回目の節目を迎えるアジアで初めての記念すべき大会ですので、ぜひとも卒業生が「NIFS」という名前で世界デビューし、体育大生の同窓会としてスポーツの楽しみ方を発信してもらえたらと思っています。

—最後に夢を教えてください。

長ヶ原 マスターズ甲子園が50周年を迎える2054年に、88歳になります。米寿の現役プレイヤーとして出場できるよう、健康寿命を延ばしたいですね(笑)。

(取材・文/西 みやび)

20210714og hoshikawa

ほしかわ・まさこ。京都府生まれ。1990(平成2)年3月、鹿屋体育大学体育学部体育・スポーツ課程卒業。東京大学教育学研究科博士課程単位取得後退学。2000年から国立スポーツ科学センター創設にかかわり、現在同センタースポーツ研究部副主任研究員、鹿屋体育大学客員准教授。

今や水泳、陸上の長距離など標高の高い土地でのトレーニングが当たり前になってきた。さらには良い雪質を求めて海外の標高の高い山でトレーニングをする冬の競技の選手たちもいる。こうした酸素の薄い土地でトレーニングする選手たちには一つの悩みが付きまとう。眠りが浅くなってしまうのだ。一般人ならば慣れるまで待っていればいいが、アスリートとなるとそうはいかない。そうした選手にアドバイスをする睡眠の専門家、それが星川雅子さんだ。

東京の北区西が丘にある国立スポーツ科学センターの低酸素宿泊室で海外出発前に高地順化を目的に宿泊をする選手たち一人一人に星川さんは的確な睡眠アドバイスを送る。この担当に抜擢された裏には生理学に精通し、脳波も取れて、呼吸もわかって低酸素の研究にかかわっていたことがあったようだ。アスリートたちのトレンドとしてリカバリーを重視するようになってきている現在、日々の睡眠へのアドバイスのニーズも高まっている。さらにはリオ五輪の前から時差調整も星川さんの専門分野となっている。

高校時代にあこがれの体育の教員がいたことから、将来は自分も体育教員になりたいと体育大学に進むことを決めた。どの大学にするかを決める段階で母親のアドバイスが決定的となった。「先生がたくさんいて、学生が少ない大学であれば、先生が一人当たりにかける時間が長いから、あなたも何とかなるかもしれない。運動神経よりも学問で身を立てたほうがあなたに向いていると思う」というものだったのだ。母親は大学の教員だった。鹿屋体育大学はできたばかりで魅力的な教員がそろっており、これも母親が鹿屋を勧める要素になったという。

京都の嵐山から鹿屋へ来てみると、そこは緑が多く、海も近く、陽の光も溢れ、道行く人が互いに声をかけあうおおらかさがあった。思っていることをストレートに口に出す人々に習慣も気を楽にさせてくれたという。そんな環境に加え、大学が創設期だったこともあり、学生と教員があれをやってみようこれもやってみようと大学を作っていく楽しみのようなものもあったそうだ。星川さん自身もフェンシング部を創設した。今思い出して一番よかったことは自分がやりたいことを先生たちが尊重してくれて一生懸命になってくれたことだったという。大きな大学と違って、1年生から3年生の体育学実験で呼吸、筋電図、筋力測定と様々なことに挑戦できたこと、さらには芝山秀太郎先生(平成12~20年、第5代学長)や竹倉宏明先生のもとで、コツコツと研究する楽しみを覚えていった。こうした経験が、今の仕事につながっているという。

大学卒業後、自分がやりたいことをさらに進めるために東京大学大学院教育学研究科の修士、博士課程と進み、1996年に鹿屋体育大学のスポーツ科学講座助手として戻ってくる。4年間を鹿屋で過ごし、将来は大学の教員になろうと考えていたちょうどその頃、日本スポーツ科学センター創設のための募集が目に留まった。チャレンジしてみると、専門性を持つ秀でた多くの応募者たちを押しのけて見事合格。センター創設のための機材の選択など、その準備段階からかかわることになった。多くの応募者たちの中からなぜ自分が選ばれたのか当時の浅見俊雄センター長に聞いてみると、「少人数で多くの競技団体をサポートするときに、やれることが多い人が欲しかった」と言われた。鹿屋体育大学で多くの測定技術を学び、さらには助手としてもそれをブラッシュアップしたからこそ希望の仕事に付けたと星川さんは振り返る。

星川さんのもう一つの強みは、相手にわかりやすい表現ができることかもしれない。アスリートに測定結果を説明する資料を作る時も、ひとこと言葉を伝える時も、相手によって微妙にニュアンスを変えて表現することができる。その能力は鹿屋体育大学の芝山先生からも認められ、アスリートのそばにいる仕事を勧められたという。小さな気遣いが実り、伝えたことによってアスリートに成功がもたらされたとき、星川さんは無上の喜びを感じるという。

若き日によきアドバイザーに支えられた経験は、今、アドバイスをする立場となって見事に開花している。

(スポーツ文化ジャーナリスト 宮嶋泰子)

”地元に貢献したい!”

「日常生活即剣道」。普段の生活がそのまま剣道の試合の結果にでる、と鹿屋体育大学の剣道部時代に指導教員だった故國分國友先生(範士八段)から教わった言葉をいつも大事にしてきたと言う。取材中、内倉康孝さんから幾度となく飛び出した「恩返しをしたい」という言葉から、鹿屋体育大学での4年間がいかに充実していたかが伝わってきた。「株式会社おおすみ観光未来会議」でのチーフディレクターとしての任務を終えて、この4月に派遣元の鹿屋市役所に戻った。地元を愛し、剣道を愛し、鹿屋体育大学の卒業生であることを誇りに、常にチャレンジ精神を忘れない。穏やかななかにもゆるぎない闘志をいつも胸に秘めている―そんな気がした。

武道館の前で写真にうつる内倉さん

うちくら・やすたか。1970(昭和45)年6月18日生まれ。鹿児島県鹿屋市出身。1993年3月、鹿屋体育大学体育学部武道課程卒業。同年4月、鹿屋市役所入庁。剣道教士七段。現在鹿屋市立田崎中学校剣道部外部指導者、田崎武道館代表、鹿屋市剣道連盟理事長、鹿児島県剣道連盟理事。主な競技歴は全九州学生剣道選手権大会優勝。全日本学生剣道東西対抗試合優秀選手。全日本学生地域対抗剣道大会優勝。

―剣道はいつから始めたのですか。

内倉 小学2年生です。私が生まれ育った鹿屋市の田崎地区は当時剣道が盛んで、小学校に入るとほとんどの子どもたちが剣道を習っていました。町内放送で団員募集が流れたのを聞いて、自分が剣道をする姿を思い浮かべて入団を決めたことを今でも鮮明に覚えています。

―鹿屋体育大学に進学したいと思ったのは?

内倉 小学校の高学年の時に鹿屋に国立で唯一の体育大学ができるという話を聞き、当時の剣道の道場の先生から「内倉は鹿屋体育大学に行くんだぞ」と刷り込まれました。家から通える大学で、剣道ができるっていいなあと思っていましたが、中学3年生の時に1期生で剣道部の濱田臣二先輩に家庭教師に来ていただき、さらに行きたいと思うようになりました。

―念願かなって進学できていかかでしたか。

内倉 今の私があるのは鹿屋体育大学に入ったことと、剣道をしたお陰だと思っています。剣道は上下関係が厳しい世界ですが、鹿屋体育大学は指導者を育成する大学ということで、「自分のことは自分でする」というのが基本でした。かといってみんなちゃんとわきまえていたので、とても良好な関係を築くことができました。剣道も学問も志を高く持てば持つほどやりがいのある大学だったと思います。

―学生時代の思い出は?

内倉 剣道部、特に同期の仲間と稽古に励み、遊んだ日々はかけがえのない時間でした。い自宅から通っていたので鹿児島弁のイントネーションが抜けず、部員を注意しているときもアクセントが変だと叱っているのに笑われたり、休み時間に鹿児島弁講座を開いていたので、同期に内倉のおかげでヒアリングはできるようになったと言われたこと。ほかにも田口信教先生に泳いでみせてとお願いして、「俺の泳ぎはひとかき50万だぞ」と言って泳いでくださり、「ほ~これがオリンピック金メダリストの泳ぎか」と思ったことや、楽しかった相撲の授業などいろんなことがありました。思い出は尽きません。

―鹿屋市役所に入ろうと思ったのは?

内倉 最初は教員志望でしたが、地元の大学に行かせてもらったので、地元に貢献したいという思いもあり鹿屋市役所を希望しました。また、両親が高齢で一人っ子だったこともあり、地元での就職を考えました。

―3月まで株式会社おおすみ観光未来会議に出向されていました。内倉さんが提案された鹿屋体育大学での真剣試し斬りを取り入れた「武道ツーリズム」が印象に残っています。

内倉 コロナの前はインバウンドが注目されていましたので、真剣試し斬りは外国人に剣道に興味をもっていただく最初の切り口としてインパクトがあると思って、剣道部の前阪茂樹先生に相談したところ、快く協力していただきました。鹿屋体育大学の剣道部は全国でも有名で、多くの一流選手を輩出しています。道場も立派で、ここでの体験は貴重で価値が高く、個人的にも「おおすみの武道ツーリズム」に非常に高い可能性を感じています。

―4月から鹿屋市役所に戻られました。今後の目標は?

内倉 これまでの経験や知識を生かして、鹿屋市民が安全で安心して楽しく暮らせるよう、市役所の先輩からいただいた「向き・不向きよりも前向き」の言葉で心機一転、また新たな気持ちで行政の仕事に取り組んでいきたいと思っています。剣道は途中10年ほど親の介護や娘のPTAの活動で離れておりました。7段に合格して10年経たないと8段の受験資格がないので、6年後に挑戦します。今後も仕事をしながらではありますが、青少年の剣道の指導と育成にも取り組んでいこうと思っています。今年は開学40周年を迎えます。今後も「体育大OB・剣道」をひとつのキーワードとして、地元の発展のために頑張ってまいります。

(取材・文/西みやび)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報について

このページの情報の見つけやすさについて