卒業生インタビュー

このページでは様々な業界で活躍する卒業生を紹介しています。

※所属や肩書はインタビューや寄稿同時のものです。

"「泳ぐだけがプールじゃない」コロナ禍に負けないアイディアマン"

20201118 oboginterview nishikawa

にしがわ・じゅんや。昭和57年〇月、香川県丸亀市生まれ。平成16年鹿屋体育大学体育学部体育・スポーツ課程卒業。200m自由形でアテネ五輪代表選考会に出場。香川県記録更新(10年間保持)。水泳のインストラクター、システムエンジニアを経て、平成22年からプール専門の水中フォトグラファーとして活動を始める。平成27年7月、株式会社Rockin’Poolを設立し、代表取締役に就任。

コロナ拡大で縮小を余儀なくされた最たるもの、それがスポーツ業界だろう。その中で、飛ぶように売れたのがプールマスクマンと呼ばれるビニール製のマスク。水泳教室で水に浮かぶ子供たちとインストラクターの距離は近い。「何か口を覆うものが欲しい」という現場からの要望に応え、試行錯誤の末に作られたのがこのマスクだ。指導者が大きな声で呼びかけても、呼気の飛沫がプールの中で他の人に直接かからないのはもちろんのこと、これを着用したまま四泳法で泳いでもずれずにお手本を見せることができるという。ヤフーニュースやテレビの番組でも取り上げられ、今では大手のスポーツクラブの水泳インストラクターはほとんどといっていいほど着用している。その発明者が西川隼矢さんだ。

西川さんは鹿屋体育大学の水泳部ではアテネ五輪の金メダリスト柴田亜衣さんと同学年だった。西川さんは自分自身を「思っていることをすぐ口に出してしまうタイプで、コーチの指導におとなしく従う選手ではなかった」という。鹿屋のプールで鏡を見ながら自らの泳ぎをチェックして自分流の泳ぎを追求することが好きだったそうだ。

大学で印象に残っているのは田口信教教授の授業だった。田口教授はミュンヘンオリンピック平泳ぎで金メダルを獲得したことで知られているが、実は水泳の実力だけではなく、その後の人生でも多くのアイディアを花咲かせている。私自身、40年ほど前、大学ができて間もなくの頃、田口教授のアイディアで作られた低圧の流水プールや、光るペースメーカーを底につけたプールなどをニュース番組で取材をさせていただいたことがある。当時世界的に見てもこれだけの施設を持っていたのは鹿屋体育大学だけだったと思う。

田口教授は授業で、「特許を取りなさい。私はこんなものを作って特許を持っている」と披露されたという。それを聞いた西川さんは、「特許をとることはハードルが高いことではない、いつかは特許をとれるようになりたい」と強く思うようになったそうだ。田口教授の授業で、西川さんは自分のアイディアを形にしていくことの面白さを心に植え付けられたようだ。

西川さんは大学卒業後、スポーツクラブの水泳インストラクターを経験。もっと稼ぎたいと3年後にはシステムエンジニアの仕事をゼロから始め、その後脱サラをして自分の会社を設立。苦しい時はアルバイトを掛け持ちしながらも、あふれるプール愛を抑えきれず、様々なプールコンテンツのアイディアを実現化してきた。

プールを単なる泳ぐだけの場所にしておくのはコストパフォーマンスが悪すぎると考え、まず取り掛かったのが、プールに浮かべてエクササイズをするプールノというボードの製作と販売だ。水上で行うバランスボールエクササイズといったらわかりやすいだろうか。水の上で揺れるボードの上で行うエクササイズでインナーマッスルが鍛えられ、さらに童心に返って楽しめると好評で、今では多くのスポーツクラブに取り入れられている。バランスを崩しドボンと水の中に落ちる感覚は眠っていた子供時代の記憶を呼び覚ましてもくれるようだ。

さらには水中バーチャルリアリティーのエクササイズも始めた。水中で両手にはめたグローブを使ってバーチャルリアリティーで次々に出現する的を打ち砕くもので、水の抵抗もあってかなりの全身エクササイズになる。子供向けかと思いきや、なんとターゲットは中高年層という。

そのほかにもプール専門カメラマンとしての仕事もある。今では多くの広告のための画像づくりも引き受けている。見慣れていたはずの水の中の映像が、カメラで切り取った瞬間に見違えるようなアートになっていたり、子どもたちの水中での表情が見たことのないような笑顔だったりと、撮影しながら多くの発見をするという。

「香川県記録を引っ提げて鹿屋体育大学に入学し、見事に天狗の鼻を折られた」という西川さんだが、あふれるようなプール愛の持ち主で、「プールにより多くの人に来てもらい、楽しんでもらえる場所にすること」こそが、自分の仕事ときっぱり言い切る。競泳の記録や結果だけではない本当の水の楽しみを人々に知ってもらいたいとアイディアで勝負をするのも鹿屋体育大学で出会った人たちのおかげだ。

プールマスクマンで得た資金をもとに、さらに新アイディアでプール産業を大きくしていきたいと西川さんは夢を追う。

 

(スポーツ文化ジャーナリスト 宮嶋泰子)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。

"障がい者スポーツの普及に取り組む"

「目標は変えるもんじゃない」。穏やかながらもキリっとした表情で言い切る言葉が、深く心に響いた。鹿屋体育大学1年生の時に突然車いすの生活になるも、“JAPANのユニホームを着て世界に出る”という高校生の頃に抱いていた夢を大学院生の時に実現させた前田究さん。車いすマラソンのお陰で新たな人生のスタートを切れた喜びと感動の経験を広めたいと、障がい者スポーツの普及・振興に取り組む。常に目標を掲げ、不可能を可能に変えてきた。50代を目前に、選手としての今のモットーは「細く長く」。迷いのない目で明日を見つめ、新たな夢に向かって走り続ける。

20201118 oboginterview maeda

まえだ・きわむ。昭和46年10月、京都府生まれ。京都府立洛北高校3年生の時、インターハイ京都府予選で走り幅跳び、三段跳びで優勝。平成6年3月、鹿屋体育大学体育学部体育・スポーツ課程卒業。平成9年3月、同大学大学院体育学研究科修士課程修了。鹿屋市の建設会社勤務を経て平成12年4月、ハートピアかごしまの開設と同時に鹿児島県身体障害者福祉協会に勤務。鹿児島県障害者スポーツ協会事務局長。著書に「車椅子マラソン競技者用テキスト:脊髄損傷を中心に」「車椅子マラソン:医・科学的研究と実践指導」(いずれも赤嶺卓哉、前田究共著)がある。

―第20回全国障害者スポーツ大会「燃ゆる感動かごしま大会」が延期になりました。

前田 現時点では次はいつになるかわからないということなので、選手としてゴールがなくなってしまった状態です。来年の三重県での開催に向けて頑張ろうという本県のチームもあるのですが、メンバーって変わっていくんですよ。年齢が高い選手は続けていくのが難しいかもしれないし、若い選手は進学や就職で環境が変わってしまう。団体競技は今のメンバーで戦うことをみんな楽しみにしていたので、モチベーションが大丈夫かなっていうのはすごく思いました。

―鹿屋体育大学に進学したのは?

前田 中学生の時から陸上をしていたので、大学でも陸上は続けて結果を出したいと思っていました。高校2年生の時に京都で国体があったので、当時の洛北高校には世界陸上に行くようなすごいレベルの先生が集まっていました。そういった先生方は横のつながりもあって、鹿屋体育大学の瓜田吉久先生や金高宏文先生と知り合いでした。その縁もあって高校3年生の時に鹿屋までキャンパスの下見に行き、なんて素晴らしい環境なんだとド肝を抜かれて、ここで学びたいって思いました。陸上競技場があるというのがとにかくすごいな、と思って。キャンパスから見える錦江湾の景色も、生まれ育った京都市には海がないのでとてもきれいだと感じました。

―学生時代に交通事故に遭われたと聞きました。

前田 大学1年生の9月に原付で寮の友人を訪ねた帰りに、軽自動車と正面衝突して脊髄を損傷し、車いすの生活になりました。将来はオリンピックや世界陸上に行きたいと思って陸上競技部に入ったのに、目標を失ってしまったんですよね。でもリハビリの病院で僕よりも障がいの重いおばちゃんに出会って、「前田君はまだ若いから車いすマラソンをやったら」って言われたんです。そんな競技があるのかと思いましたが、同じ陸上競技だと気付き、すぐやろうと思ったんですよ。

新たに目標ができたことで入院生活が変わりました。それまでは主治医の先生に「手が足の代わりになるから上半身を鍛えよう」と言われ、なんとなくリハビリに取り組んでいましたが、それだけではマラソンに対応できないと、自主的に坂道ダッシュのトレーニングを日課にしました。2年生の9月から大学に復帰するとともに陸上競技部の活動にも加わり、3年生で念願の車いすマラソン大会デビューを果たしました。

大学生活では座学だけでなく実技にも挑戦。器械体操では北川淳一先生にトランポリンをやってみよう!と言われてやってみると両下肢麻痺でもそこそこ跳ねるようになって。先生のコツの教え方がうまくて、びっくりしたことを覚えています。当時の先生方が尽力してくださったおかげで、規定の単位を取得。4年間で無事に卒業することができました。

―赤嶺卓哉先生との共同著書もあります。

前田 3年生になる時に車いすスポーツの研究ができるので私のゼミに来ませんかと、赤嶺先生に誘っていただきました。大学院にも進学し、障がい者スポーツの単独競技では国内」初となる車いすマラソンの競技者用テキスト発刊に関わりました。現在は鹿屋体育大学の学生に非常勤講師として後期の「障がい者スポーツ論」を教えています。

実は大学院生の時に日本代表でジャパンのユニホームを着て、イギリスまで国際大会に行っているんですよ。目標が大事だという話はよくするのですが、目標は変えるもんじゃないということをそのときに思いました。目標は変えずにやり方を変える。走り幅跳びで国際大会に行くという目標は叶いませんでしたが、車いすの陸上で行けた。1度失った目標を違う方法で叶えることができました。

―今後の夢は?

前田 僕自身、車いすマラソンに生きる力をもらったので、障がい者スポーツを広めたいという思いで今の職業に就きました。延期された全国障害者スポーツ大会のことは鹿児島ではまだあまり知られていませんが、大会を機に障がいのある人が当たり前にスポーツできる環境を整備し、障がいのない人の認知度も向上するよう、これからも働きかけたり、やれることをやっていきたいと思っています。大分国際車いすマラソンには今でも出場しています。車いすマラソンの現役選手としても、細々とでも続けていきたいですね。   

(取材・文/西 みやび)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。

”ペンでアスリートを紹介”

「大学同期の赤尾公選手もいた鹿児島ユナイテッドFCの鹿児島県勢初のJリーグ参入に、取材でかかわれたことがう「大学同期の赤尾公選手もいた鹿児島ユナイテッドFCの鹿児島県勢初のJリーグ参入に、取材でかかわれたことがうれしかったですね」と、はにかんだような笑顔を見せた。念願の運動部に異動して7年目。昨年8月の天皇杯JFA第99回全日本サッカー選手権大会では、3回戦・鹿屋体育大学対大分トリニータの試合を現地取材、サッカー経験者ならではの豊かな表現力と母校愛を感じさせる心温まる記事が印象的だった。ゴールキーパーとして活躍していた高校時代、南日本新聞の取材を受けたのがきっかけで新聞記者に。東京五輪を控え、元アスリートとしての夢をペンで伝えるべく奔走する日々を送る。23期生の下野敏幸さんからは、やりたいことをやれている充実感が全身から伝わってきた。

20201026 obinterview shimono

しもの・としゆき。昭和62年5月、鹿児島市生まれ。サッカーの強豪校と言われる東福岡高校から、鹿屋体育大学へ進学。平成22年3月、同大学スポーツ総合課程卒業。同年4月、南日本新聞社入社。平成26年から編集局運動部

―鹿屋体育大学に進学したのは?

下野 小学校4年生から始めたサッカーを続けるために、地元の中学校を卒業後、福岡県の東福岡高校に進学しました。高校の1学年先輩に長友佑都選手がおり、同じように東京の大学に進学したいという気持ちも強かったのですが、高校の先生に鹿屋体育大学のスポーツ推薦を受けてみないかと言われ、地元鹿児島ということもあり、受験を決めました。

―なぜ新聞記者に?

下野 中学を卒業して県外の高校に進学したので、鹿児島の友達とも疎遠になっていたのですが、高校3年生の時に東福岡高校サッカー部の主力メンバーは鹿児島県人が多いという話題を南日本新聞で取り上げてもらったところ、久しぶりに中学時代の友達や知り合いから連絡がきて、反響の大きさを体感したことをずっと覚えていました。生意気にもプロの選手になりたいと思っていたのですが、実際には無理だということにやがて気付き、新聞記者になってスポーツを取材する仕事に就けたらと漠然とですが思っていましたので、試験を受けてたまたま入れたという感じです。

―鹿屋体育大学の魅力は何だと思いますか。

下野 競技に集中できる環境だと思います。ストイックに頑張った人は、プロになれるということを実際に見てきました。学生時代、世界を舞台に活躍している人たちと一緒に授業を受けて、刺激を受けることも多かったです。

―体育大の卒業生でよかったと思うことは?

下野 サッカー部の塩川勝行監督やバレーボール部の濱田幸二先生、自転車競技の黒川剛先生など、取材の現場でも母校の先生方や卒業生、在校生とつながりを持てることです。後輩がJリーガーに内定したときは大学まで取材に行きました。平成30年にはインドネシアのジャカルタまで「第18回アジア競技大会」の取材に行かせてもらい、体操競技部の前野風哉さん、自転車競技部の橋本優弥さんと卒業生で東京五輪への切符を獲得したお兄さんの英也さん兄妹にも取材して紙面で大きく紹介しました。東京オリンピックは1年延びましたが、体操競技部の杉野正尭君にチャンスがあるのではと期待しています。

―今後の夢は?

下野 異動で運動部に来たときは、東京五輪の取材はベテラン記者がやることで、自分にはおこがましいと思っていました。思いがけず7年目に入り、スポーツをしていた頃、選手としては遠い存在だったオリンピックに、報道という立場でそこに立てるチャンスがやってきたので、そのチャンスをつかみたいと思っています。会社としてはスポーツだけをやれればいいということではないことも理解していますが、現在入社の動機になった仕事をできているのは本当にありがたいです。

―最後に後輩たちにひとこと。

下野 僕は高校も大学もスポーツで選んだので、はたから見たらスポーツバカに見えるかもしれませんが、スポーツを通して学んだことや積み重ねてきた経験は、仕事をするうえで生きていると感じます。厳しさに耐えることや、困難を克服するためにどうすればよいかを考えて練習を続けてきたこと、体育大でいろんな仲間たちと切磋琢磨するなかで身につけてきたことは、将来きっと役に立つと思います。今やっていることは決して無駄にならないので、自分を信じて一生懸命頑張ってほしいですね。 

(取材・文/西みやび)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。

"鹿屋体育大学同窓会新会長 3期生で同大学の北村尚浩教授に聞く"

鹿屋体育大学の同窓会会長は1993年から、同大学に勤務する同窓生が会長を務めるようになりました。初代・前阪茂樹先生、2代・前田明先生、3代・濱田幸二先生とこれまでは1期生の会長でしたが、この4月に2009年から会長を務めた濱田先生から3期生で同大学スポーツ人文・応用社会科学系の北村尚浩教授へとバトンが渡されました。北村新会長に話を伺いました。

20201026 obinterview kitamura

―来年開学40周年を控えての会長就任となりました。北村先生が学生でいらした頃と現在で、大学は変わりましたか。

北村 最先端研究設備を備えた屋内研究施設のスポーツパフォーマンス研究センターもできましたし、スポーツをする環境として非常によくなったと感じます。知名度も以前にも増して上がってきており、各方面から注目を集めるようになってきていると感じます。

―先生が感じておられるこの大学の魅力はなんでしょう。

北村 日本で唯一の国立大学の体育大学であるということは、ここにしかない!という誇りにつながるのではと思います。一学年約200名という学生数に対して施設はものすごく充実していますし、周りに何もないのでスポーツに打ち込むにはもってこいの環境です。一方で、都会と比べると何もないのだけれども、海も山もある。自然が豊かで楽しく遊べるところでもあると思います。

―もともと県外出身の入学者が多いこともあり、同窓会開催にあたってはご苦労も多いと思います。毎年どのような形で同窓会が開催されているのでしょうか。

北村 ここ最近では東京・大阪・広島・福岡といった、卒業生が比較的集まりやすい大都市で年1回、大学との意見交換会と合わせて総会を開催してきました。地域ごとに〇〇鹿屋会と銘打った懇親会も多く開催されているようです。昨年2月には初めて鹿児島鹿屋会を開催し、30人ほど集まりました。

ただ、個人情報の取り扱いに慎重にならざるを得ないところもあって、こういった地域ごとの鹿屋会は個人が持っているネットワークを頼りに手探りでやってきているというのが現状です。今後、現時点で連絡がつく卒業生に対しては個人情報の扱いについて確認をとっていく予定です。

―アテネ五輪で金メダルを獲得した柴田亜衣さんを始め、多くの著名な卒業生を輩出しています。卒業生はどのような職場で活躍されていますか。

北村 テレビ局などのマスコミ関係や航空会社のパイロット、Jリーグ、プロ選手を経てコーチになった人、医療の分野で活躍している人など本当にバラエティー豊かです。学校の先生になっている卒業生も多く、最近では「高校の先生が鹿屋体育大学の卒業生で、薦められました」という学生も増えてきています。同窓会としても、さまざまな分野で活躍している卒業生の情報を受験生に届けることができたらと思っています。

―最後に新会長として、今後同窓会をどのようにしていきたいか、お聞かせください。

北村 現在約5700人の卒業生がいます。まずは同窓会としての活動を、しっかりとアピールしていきたい。もうひとつは、同窓会の会長としてというよりは教員としての役目になるのかもしれませんが、鹿屋体育大学が好きだと言ってもらえる卒業生を増やすためにも、在学生の「部活動」ではなく「大学」に対する愛着を深め、大学のアイデンティティーを確立することができたらと考えています。

母校の発展のために、大学との橋渡し役として同窓会の声を届けていきたいですね。

(取材・文/西みやび)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報について

このページの情報の見つけやすさについて