“障がい者スポーツの普及に取り組む”

「目標は変えるもんじゃない」。穏やかながらもキリっとした表情で言い切る言葉が、深く心に響いた。鹿屋体育大学1年生の時に突然車いすの生活になるも、“JAPANのユニホームを着て世界に出る”という高校生の頃に抱いていた夢を大学院生の時に実現させた前田究さん。車いすマラソンのお陰で新たな人生のスタートを切れた喜びと感動の経験を広めたいと、障がい者スポーツの普及・振興に取り組む。常に目標を掲げ、不可能を可能に変えてきた。50代を目前に、選手としての今のモットーは「細く長く」。迷いのない目で明日を見つめ、新たな夢に向かって走り続ける。

鹿屋体育大学7161

まえだ・きわむ。昭和46年10月、京都府生まれ。京都府立洛北高校3年生の時、インターハイ京都府予選で走り幅跳び、三段跳びで優勝。平成6年3月、鹿屋体育大学体育学部体育・スポーツ課程卒業。平成9年3月、同大学大学院体育学研究科修士課程修了。鹿屋市の建設会社勤務を経て平成12年4月、ハートピアかごしまの開設と同時に鹿児島県身体障害者福祉協会に勤務。鹿児島県障害者スポーツ協会事務局長。著書に「車椅子マラソン競技者用テキスト:脊髄損傷を中心に」「車椅子マラソン:医・科学的研究と実践指導」(いずれも赤嶺卓哉、前田究共著)がある。

―第20回全国障害者スポーツ大会「燃ゆる感動かごしま大会」が延期になりました。

前田 現時点では次はいつになるかわからないということなので、選手としてゴールがなくなってしまった状態です。来年の三重県での開催に向けて頑張ろうという本県のチームもあるのですが、メンバーって変わっていくんですよ。年齢が高い選手は続けていくのが難しいかもしれないし、若い選手は進学や就職で環境が変わってしまう。団体競技は今のメンバーで戦うことをみんな楽しみにしていたので、モチベーションが大丈夫かなっていうのはすごく思いました。

―鹿屋体育大学に進学したのは?

前田 中学生の時から陸上をしていたので、大学でも陸上は続けて結果を出したいと思っていました。高校2年生の時に京都で国体があったので、当時の洛北高校には世界陸上に行くようなすごいレベルの先生が集まっていました。そういった先生方は横のつながりもあって、鹿屋体育大学の瓜田吉久先生や金高宏文先生と知り合いでした。その縁もあって高校3年生の時に鹿屋までキャンパスの下見に行き、なんて素晴らしい環境なんだとド肝を抜かれて、ここで学びたいって思いました。陸上競技場があるというのがとにかくすごいな、と思って。キャンパスから見える錦江湾の景色も、生まれ育った京都市には海がないのでとてもきれいだと感じました。

―学生時代に交通事故に遭われたと聞きました。

前田 大学1年生の9月に原付で寮の友人を訪ねた帰りに、軽自動車と正面衝突して脊髄を損傷し、車いすの生活になりました。将来はオリンピックや世界陸上に行きたいと思って陸上競技部に入ったのに、目標を失ってしまったんですよね。でもリハビリの病院で僕よりも障がいの重いおばちゃんに出会って、「前田君はまだ若いから車いすマラソンをやったら」って言われたんです。そんな競技があるのかと思いましたが、同じ陸上競技だと気付き、すぐやろうと思ったんですよ。

新たに目標ができたことで入院生活が変わりました。それまでは主治医の先生に「手が足の代わりになるから上半身を鍛えよう」と言われ、なんとなくリハビリに取り組んでいましたが、それだけではマラソンに対応できないと、自主的に坂道ダッシュのトレーニングを日課にしました。2年生の9月から大学に復帰するとともに陸上競技部の活動にも加わり、3年生で念願の車いすマラソン大会デビューを果たしました。

大学生活では座学だけでなく実技にも挑戦。器械体操では北川淳一先生にトランポリンをやってみよう!と言われてやってみると両下肢麻痺でもそこそこ跳ねるようになって。先生のコツの教え方がうまくて、びっくりしたことを覚えています。当時の先生方が尽力してくださったおかげで、規定の単位を取得。4年間で無事に卒業することができました。

―赤嶺卓哉先生との共同著書もあります。

前田 3年生になる時に車いすスポーツの研究ができるので私のゼミに来ませんかと、赤嶺先生に誘っていただきました。大学院にも進学し、障がい者スポーツの単独競技では国内」初となる車いすマラソンの競技者用テキスト発刊に関わりました。現在は鹿屋体育大学の学生に非常勤講師として後期の「障がい者スポーツ論」を教えています。

実は大学院生の時に日本代表でジャパンのユニホームを着て、イギリスまで国際大会に行っているんですよ。目標が大事だという話はよくするのですが、目標は変えるもんじゃないということをそのときに思いました。目標は変えずにやり方を変える。走り幅跳びで国際大会に行くという目標は叶いませんでしたが、車いすの陸上で行けた。1度失った目標を違う方法で叶えることができました。

―今後の夢は?

前田 僕自身、車いすマラソンに生きる力をもらったので、障がい者スポーツを広めたいという思いで今の職業に就きました。延期された全国障害者スポーツ大会のことは鹿児島ではまだあまり知られていませんが、大会を機に障がいのある人が当たり前にスポーツできる環境を整備し、障がいのない人の認知度も向上するよう、これからも働きかけたり、やれることをやっていきたいと思っています。大分国際車いすマラソンには今でも出場しています。車いすマラソンの現役選手としても、細々とでも続けていきたいですね。   

(取材・文/西 みやび)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。

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