日本で唯一の国立体育大学

国立大学法人 鹿屋体育大学 KANOYA

スポーツ生命科学系 山本 正嘉

小学生の頃の夢は、植物学者。山の植物が見たくなって、中3の5月に秩父の武甲山に登った山本少年を捉えたのは、植物よりも山そのものだった。それでも山岳部で鍛錬するのは大学に入ってからと決め、高校では基礎体力づくりのために水泳部に入ったというから、将来を見越した計画性と実行力に驚く。大好きな山登りを学問にかえ、“登れる科学者”として自身を実験台に新しい研究分野を切り拓いた。第4回秩父宮記念山岳賞、第10回日本山岳グランプリ「グランプリ」受賞という輝かしい経歴が、山本先生の長年の功績が認められたことを証明している。近寄りがたい経歴とは裏腹に、本人はとても気さくでシャイなジェントルマンである。

研究内容をひと言で教えてください。

山本 「人間の限界を科学する。人間の限界にチャレンジする」。僕自身、自分で自分の限界を科学し、それを基に自分も限界にチャレンジするというコンセプトでやってきました。学生が同じようにやるための方法論を研究しています。体育大の学生にとって一番大事なことは、自分が自分を理解して、競技力をいい方向にどれだけ伸ばせるかってこと。競技力向上のために4年間、科学者になったつもりで自分を伸ばすための研究と実践をやってほしいです。

研究者を志したきっかけは?

山本 学生時代の1981年に南米のアコンカグア南壁に行って、なんとか登頂はできたものの3日3晩飲まず食わずの生活を強いられ、目も見えなくなって死を覚悟させられるような極限の経験をしました。当時は大勢の人がヒマラヤに行っていた時代で、亡くなる人も多かったので、自ら学んだことを生かして山の事故を減らしたい、そんな思いもあって研究の世界に入りました。

山本先生は東京大学のスキー山岳部TUSACのご出身ですが、登山と運動生理学が結びついたのもご自身の体験からでしょうか。

山本 研究者になってからの1995年にヒマラヤ山脈のチョーオユー標高8201mに無酸素で挑戦する機会があり、登ることはできたのですが高所登山のことをほとんど知らなくて体重も12㌔やせて大変な思いをしました。この経験を機に高所や低酸素のことを調べるようになり、さらに本腰を入れて研究に取り組むようになりました。

これまで約40年間、教育と研究に携わってこられました。鹿屋体育大学には1998年に着任されましたが、本学の学生にはどんな印象を持たれていますか。

山本 本学は推薦等と一般選抜で入ってくる学生の数が半々ですが、学生はお互いに得意なことを教え合って、課外活動を超えたつながりの中で競技力を上げていくために積極的に学問にも取り組んでいます。優秀なしっかりした学生がたくさんいる、という印象は着任時から変わりません。昨年出版した著書『アスリート・コーチ・トレーナーのためのトレーニング科学』(市村出版)の副題に、「~トレーニングに普遍的な正解はない~」と付けました。みんなどこかに正解があると思っていて手短にその答えを知りたがる傾向にありますが、トレーニングの話で言うと正解なんてないんです。一人ひとり自分の個性をまず知って、地道に自分で実験して自分の正解を自ら発見していかないと前に進めません。科学的にやったらすぐに楽に強くなれると思い込んでいる学生が多くて、そんなことはありえないってことをたたき込むのが僕の学生への教育の第一歩なんです。4年生ぐらいになると僕の言っていることがわかってきてぐんぐん伸びるので、それを見るのが1番の幸せでもあります。

2006年から2022年3月まで、本学スポーツトレーニング教育研究センター長を兼務されていました。登山家の三浦雄一郎さんを始め、“トレセン”の低酸素室には著名な高所登山家のほとんどが訪れて山本先生の指導を受けたと伺っています。

山本 2020年に青森県で開催された国民体育大会スピードスケート競技男子1000㍍で見事銅メダルを取って、鹿児島県勢史上初の冬季国体表彰台となった小林寛和選手もここでトレーニングに取り組みました。低酸素室があったからメダルを取れたのではなく、指導をした当時の大学院生たちが正解はないことをちゃんと胸に刻んで、小林選手の個性に合った正解は何かってことを本人にも考えさせながらやったことが成果につながったのです。

ところで、登山家の大蔵喜福さんの著書『彼ら「挑戦者」新進クライマー列伝』に山本先生が登場します。3人兄弟全員が東大卒だそうですね。どんな環境で育ったのですか。

山本 父は陸上自衛隊の最高機関に勤めていました。70年代安保闘争があった大変な時代で、朝は早く、帰りは遅くて顔を合わせる時間はほとんどありませんでした。自衛隊の前は陸軍士官学校を出て、戦時中は満州で飛行訓練をやっていたようです。母が「お父さんはお国のために頑張っているんだから、あなたたちも頑張りなさい」と言っていたのは覚えています。兄は子どものころから神童って言われたぐらい優秀で、次男の僕は要領がよかった。弟は中学生ぐらいの時「お前は兄貴2人に全部才能を吸い取られてしぼりかすだな」って先生に言われて頭にきたらしく、その夜から頑張りだしました。努力家だったと思います。3人とも越境で所沢から男子校の埼玉県立浦和高校に進学したので、とにかく通学に時間がかかって。水泳部に入っていたので帰ってきたらへとへとで、真剣に受験勉強を始めたのは部活を引退した3年生の8月以降です。「東大が最高学府だったら1発で通ってみせるぜ」みたいなミッションを自分に課して現役合格しました。ミッション達成型は山にも通ずるところがあります。家庭環境というよりは恐らく文武両道を掲げながらも自由を尊重する、浦和高校の校風がよかったのだと思います。

今年もまもなく8月11日、山の日がやってきます。最後に山本先生から山に親しむためのアドバイスをお願いします。

山本 江戸時代中期から明治にかけて薩摩藩の青少年教育に使われた「郷中(ごじゅう)教育」の中に、“山坂達者”という言葉が出てきます。標高500m程度の低山で1カ月の総登下降距離が登り2000㍍、下り2000㍍の±2000㍍になるようにすれば、健康増進、体力増進にものすごく効果があるというのは登山界全体にウケたエビデンスです。鹿児島にはせっかく昔からこんないい言葉があるのだから、平地でのウォーキングに慣れてきたらまずは坂道でのウォーキングをやってみたら効果が倍増すると思います。

※令和4年7月6日当時在籍していた教員の記事です。