日本で唯一の国立体育大学

国立大学法人 鹿屋体育大学 KANOYA

ミズノテクニクス株式会社

亀井 晶さん

かめい・あきら。1970(昭和45)年2月15日生まれ。愛知県名古屋市出身。愛知県立惟信高校~鹿屋体育大学体育学部体育・スポーツ課程。1992(平成4)年3月卒業。
ミズノテクニクス株式会社山崎ランバード工場製造課 トップフォロー・リペア担当 班長

信頼されるクラフトマン

8月5日、東京オリンピック2020の札幌会場で亀井晶さんは各国の競歩の選手たちの足元をじっと見つめていた。スポーツメーカーミズノのシューズ専門クラフトマンとして日本代表の4人の選手一人一人の足に合わせた特別注文のシューズを作成してきただけに、海外の選手の足元もおのずと気になる。マラソンは厚底が主流となっているが、競歩はうす底でソールが良く曲がるものが主流だ。片足が必ず地面についていなくてはいけない競歩では、厚底は跳ねてしまうので効果的ではない。亀井さんは世界のトップアスリートの足元を見ながら自らの判断が間違っていないことを確認していた。

競歩の選手から寄せられる信頼は大きい。選手たちの要望に合わせ自分たちの経験をフルに生かして作ったシューズを一人につき4足手渡していた。同じように制作したはずのシューズでも結局その中から本番用として選ばれるのは1足だけ。その1足が選手の鍛え上げた肉体を支えて最大のパフォーマンスを引き出すのだ。東京オリンピックで日本の陸上競技で初のメダルとなった男子20キロ競歩、池田尚希選手の銀と山西利和選手の銅は亀井さんの努力の結晶でもあったと言っていいだろう。

「試合中は何か不都合が起きてしまわないかひやひやしています。終わったとたんにうれしいというよりもほっとするというのが正直なところです

こう話す亀井さんの実直さと責任感はその表情に表れている。

名古屋出身の亀井さんが鹿屋体育大学に進んだのが1988年のこと。社会体育を専攻しながら陸上競技部の短距離やハードルに汗を流していた。鹿屋の夏は照り付ける太陽が海の反射を得て全てがまぶしい。トレーニングが終わって皆で海洋センターまで移動し、海で泳いだのがいい思い出だという。トレンディードラマが流行するバブル全盛期の時代、都会へのあこがれを少しばかり抱きながらも鹿屋での日々を満喫していた。1992年の卒業式が、初めて水野記念講堂で執り行われることとなり、列席された先代の水野会長に挨拶できたのがいい思い出だという。律儀さや人とのコミュニケーションを大切にしていく姿は当時から変わらない。

ミズノに就職してからしばらくは西日本の営業を担当していたが、その後シューズのクラフトマンとして抜擢され、兵庫県宍粟市にあるミズノの工場の一角にある工房に陣取るようになる。一般に市販されるラインで製造されるシューズとは異なり、一人一人のアスリートに合わせて足型をとり、裁断、縫製、成形を行って作る特注品製造の仕事だ。人工知能でなんでもやってしまう時代に、その作業は昔とほとんど変わらない手仕事となる。

「100人いれば脚の形は100通りです。さらに一人一人の要望はとても抽象的なんです」

一度手渡したシューズの履き心地を聞きながらよりよいシューズへと作り上げていく過程は容易ではない。選手は「この辺をちょっとだけ伸ばしてほしい」などとニュアンスで表現してくる。それを亀井さんは頭の中で数値化して要望を受け取っていく。このやり取りの中でクラフトマンと選手との信頼関係が作り上げられていくのだろう。

リオデジャネイロオリンピック4×100mリレーの銀メダリスト飯塚翔太のシューズを担当してきたのも亀井さんだ。様々な要望を聞き入れながら丹念に作り上げてきたシューズは五輪の本番用に最低2足は用意する。万が一盗難にあうことも視野に入れてというのだ。念には念を入れての準備に頭が下がる。

飯塚選手はこれまで折を見ては鹿屋体育大学のSPORTECスポーツパフォーマンス研究センターを使って測定を行ってきた。しかし、コロナ禍にも見舞われたこともあり、亀井さんが同行する機会は残念ながら見送られてきた。コロナが落ち着いたらぜひSPORTECスポーツパフォーマンス研究センターを見てみたいと言葉を弾ませる亀井さん。新たなプロフェッショナルの眼を持った亀井さんに、センターはどのように映るのだろうか。

これまでで最もうれしかったことは何かと聞くと意外な答えが返ってきた。特注シューズはトップアスリートだけではなく、一般の方向けにも直営店などで請け負うこともある。そうした折に年配の方のために作ったシューズが気に入ってもらえ、「もうこれ以外のシューズは履けませんよ。本当にありがとう」と言葉をかけてもらった時が人生で最もうれしかった瞬間だったという。アスリートへの責任感とはまた異なる喜び。人間の歩くという基本の行為を手助けできることを一番の喜びとして挙げる亀井さんの心もまた素敵だ。

(スポーツ文化ジャーナリスト 宮嶋 泰子)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。