日本で唯一の国立体育大学

国立大学法人 鹿屋体育大学 KANOYA

上海安帝体育諮詢有限公司総経理  

台北光翼颯瀏特有限公司董事  

Glowing株式会社代表取締役

中川 章弘さん

なかがわ・あきひろ。1978(昭和53)年5月6日生まれ。福岡県福岡市出身。福岡県立香住丘高等学校から1997年4月、鹿屋体育大学に入学。在学中、上海体育学院へ交換留学。2002年3月卒業。2005年、上海安帝体育諮詢有限公司を設立。2017年、台北光翼颯瀏特有限公司、2018年には福岡にGlowing 株式会社を設立し、スポーツイベントの企画・運営・管理、スポーツ用品の研究開発、製造、販売、輸出入、スポーツ選手・人材のマネジメントなど、幅広い事業を展開している。

まばゆいばかりの上海の夜景を背景に中川章弘さんはzoomのインタビュー画面に現れた。上海で起業しスポーツビジネスを手掛け、テニススクールを中心にイベント企画や運営、スポーツ物品の開発や販売を行っている。

上海との出会いは大学2年次の交換留学から始まった。鹿屋体育大学が上海体育学院と大学間交流協定を締結した最初の年の留学生になったのだ。「テニスだけで生きていくだけの実力はなかったので、何か他の付加価値を付けなければと思い、留学を選びました」と当時の決断を語る。

卒業後、1年間の留学では習得しきれなかった語学をものにしたいと再び上海に渡り、プロテニスチームでコーチを行いながら着々と準備を進め、4年目に起業した。

日本人が中国でビジネスをするのは難しくなかったかと聞くと、「起業をする人は多いですが、なかなか中国そのものに入り込んでいくのが簡単ではなかったですね」と答える。国が発行した身分証明書を持っている中国人が何かにつけ優先されて、パスポートを頼りにするしかない中川さんは常に後回しにされた。中でも、中国では土地を所有しているのが政府なので、その土地を借りるのが難儀だったそうだ。その起業からすでに20年が経過している。

テニススクールを始めた当初の顧客は上海に駐在する日本人がほとんどで、中国の人は1割程度だった。経済成長とともに徐々に会員も増えて350人ほどになり順調に見えたところでコロナに襲われた。そしてそれに続く中国経済の悪化だった。さらには円安も追い打ちをかけて会員数は激減。しかし、それを救ったのが、去年のパリオリンピックだった。テニス女子シングルスで、鄭欽文(ジェン・チンウェン)が中国人として初の金メダルを獲得。この歴史的快挙に刺激されて中国全土に若い女性を中心にテニスブームが巻き起こったのだ。かつては卓球やバドミントンが主流だった中国のスポーツだが、生活が豊かになるにつれ、テニスやゴルフなどをする人もちらほら見かけるようになってきていた。そこにこの金メダルだ。現在はスクールの会員は7割が中国人だという。

中川さんの鹿屋体育大学に対する思いは人一倍で、卒業して郷里に戻る時には涙を流したほどだったという。

「ここを離れたくないという思いが強くありました。人と人との関係もとても心地よかったんです」

そう話す中川さんの学生時代は実に活動的だった。上海留学から戻ると、現地で学習した太極拳を生かそうと宮田和信教授の太極拳研究会に所属し、毎週土曜日には鹿屋の朝市で住民と一緒に太極拳を行った。さらにはグローバル研究会にも所属し、2001年には鹿屋体大と上海体育学院交流事業を企画。学生7名と西園秀嗣教授と田畑泉教授と共に上海を訪れ、その功績で、卒業時に学生表彰されている。

中川さんの鹿屋愛と学生時代からの様々な活動は、現在のビジネスでもしっかり生かされている。上海テニススクールの子どもたちを鹿屋まで引率して、大学で合宿を行ったり、テニス部のウェアーを中国から運搬するなど、毎年のように鹿屋に足を運んでいる。

さらに鹿屋の自然が大好きな中川さんは、学生時代から子どもたちを自然に親しませるためのボランティア、ゴムボートでの錦江湾一周なども行い、国立大隅青少年自然の家にも出入りしていた。そこでも刺激的な出会いがあった。

鹿屋体育大学の自転車競技部を1995年に作り、本格的な強化を始めたばかりの黒川剛さんと出会ったのだ。鹿屋の自転車競技部と言えば、これまで日本代表選手を50人以上輩出している全国屈指の強豪だ。創部間もない時期で将来の夢を熱く語る黒川さんと意気投合し、中川さんは学生時代に自転車競技部にも入り、さらにはレースにも出場している。

柳敏晴教授のゼミで生涯スポーツや野外スポーツを学んだこともあり、中川さんは今、新たな夢を抱き始めている。

「インバウンドでにぎわう日本ですが、これからは体験型のツーリズムが求められると思うんです、日本の素晴らしい自然の中でのサイクルツーリズムをビジネスとしてぜひ実現させたいですね」

大好きな自然、温かい人たちとの出会い。興味のあることに没頭する情熱、そして海外で得た拓く力。中川さんの人生の中心には常に鹿屋がある。

(スポーツ文化ジャーナリスト 宮嶋泰子)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。