日本で唯一の国立体育大学

国立大学法人 鹿屋体育大学 KANOYA

国立スポーツ科学センタースポーツ研究部副主任研究員

星川 雅子さん

ほしかわ・まさこ。京都府生まれ。1990(平成2)年3月、鹿屋体育大学体育学部体育・スポーツ課程卒業。東京大学教育学研究科博士課程単位取得後退学。2000年から国立スポーツ科学センター創設にかかわり、現在同センタースポーツ研究部副主任研究員、鹿屋体育大学客員准教授。

今や水泳、陸上の長距離など標高の高い土地でのトレーニングが当たり前になってきた。さらには良い雪質を求めて海外の標高の高い山でトレーニングをする冬の競技の選手たちもいる。こうした酸素の薄い土地でトレーニングする選手たちには一つの悩みが付きまとう。眠りが浅くなってしまうのだ。一般人ならば慣れるまで待っていればいいが、アスリートとなるとそうはいかない。そうした選手にアドバイスをする睡眠の専門家、それが星川雅子さんだ。

東京の北区西が丘にある国立スポーツ科学センターの低酸素宿泊室で海外出発前に高地順化を目的に宿泊をする選手たち一人一人に星川さんは的確な睡眠アドバイスを送る。この担当に抜擢された裏には生理学に精通し、脳波も取れて、呼吸もわかって低酸素の研究にかかわっていたことがあったようだ。アスリートたちのトレンドとしてリカバリーを重視するようになってきている現在、日々の睡眠へのアドバイスのニーズも高まっている。さらにはリオ五輪の前から時差調整も星川さんの専門分野となっている。

高校時代にあこがれの体育の教員がいたことから、将来は自分も体育教員になりたいと体育大学に進むことを決めた。どの大学にするかを決める段階で母親のアドバイスが決定的となった。「先生がたくさんいて、学生が少ない大学であれば、先生が一人当たりにかける時間が長いから、あなたも何とかなるかもしれない。運動神経よりも学問で身を立てたほうがあなたに向いていると思う」というものだったのだ。母親は大学の教員だった。鹿屋体育大学はできたばかりで魅力的な教員がそろっており、これも母親が鹿屋を勧める要素になったという。

京都の嵐山から鹿屋へ来てみると、そこは緑が多く、海も近く、陽の光も溢れ、道行く人が互いに声をかけあうおおらかさがあった。思っていることをストレートに口に出す人々に習慣も気を楽にさせてくれたという。そんな環境に加え、大学が創設期だったこともあり、学生と教員があれをやってみようこれもやってみようと大学を作っていく楽しみのようなものもあったそうだ。星川さん自身もフェンシング部を創設した。今思い出して一番よかったことは自分がやりたいことを先生たちが尊重してくれて一生懸命になってくれたことだったという。大きな大学と違って、1年生から3年生の体育学実験で呼吸、筋電図、筋力測定と様々なことに挑戦できたこと、さらには芝山秀太郎先生(平成12~20年、第5代学長)や竹倉宏明先生のもとで、コツコツと研究する楽しみを覚えていった。こうした経験が、今の仕事につながっているという。

大学卒業後、自分がやりたいことをさらに進めるために東京大学大学院教育学研究科の修士、博士課程と進み、1996年に鹿屋体育大学のスポーツ科学講座助手として戻ってくる。4年間を鹿屋で過ごし、将来は大学の教員になろうと考えていたちょうどその頃、日本スポーツ科学センター創設のための募集が目に留まった。チャレンジしてみると、専門性を持つ秀でた多くの応募者たちを押しのけて見事合格。センター創設のための機材の選択など、その準備段階からかかわることになった。多くの応募者たちの中からなぜ自分が選ばれたのか当時の浅見俊雄センター長に聞いてみると、「少人数で多くの競技団体をサポートするときに、やれることが多い人が欲しかった」と言われた。鹿屋体育大学で多くの測定技術を学び、さらには助手としてもそれをブラッシュアップしたからこそ希望の仕事に付けたと星川さんは振り返る。

星川さんのもう一つの強みは、相手にわかりやすい表現ができることかもしれない。アスリートに測定結果を説明する資料を作る時も、ひとこと言葉を伝える時も、相手によって微妙にニュアンスを変えて表現することができる。その能力は鹿屋体育大学の芝山先生からも認められ、アスリートのそばにいる仕事を勧められたという。小さな気遣いが実り、伝えたことによってアスリートに成功がもたらされたとき、星川さんは無上の喜びを感じるという。

若き日によきアドバイザーに支えられた経験は、今、アドバイスをする立場となって見事に開花している。

(スポーツ文化ジャーナリスト 宮嶋泰子)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。