日本で唯一の国立体育大学

国立大学法人 鹿屋体育大学 KANOYA

南日本新聞社運動部記者

下野 敏幸さん

しもの・としゆき。昭和62年5月、鹿児島市生まれ。サッカーの強豪校と言われる東福岡高校から、鹿屋体育大学へ進学。平成22年3月、同大学スポーツ総合課程卒業。同年4月、南日本新聞社入社。平成26年から編集局運動部

”ペンでアスリートを紹介”

「大学同期の赤尾公選手もいた鹿児島ユナイテッドFCの鹿児島県勢初のJリーグ参入に、取材でかかわれたことがうれしかったですね」と、はにかんだような笑顔を見せた。念願の運動部に異動して7年目。昨年8月の天皇杯JFA第99回全日本サッカー選手権大会では、3回戦・鹿屋体育大学対大分トリニータの試合を現地取材、サッカー経験者ならではの豊かな表現力と母校愛を感じさせる心温まる記事が印象的だった。ゴールキーパーとして活躍していた高校時代、南日本新聞の取材を受けたのがきっかけで新聞記者に。東京五輪を控え、元アスリートとしての夢をペンで伝えるべく奔走する日々を送る。23期生の下野敏幸さんからは、やりたいことをやれている充実感が全身から伝わってきた。

鹿屋体育大学に進学したのは?

下野 小学校4年生から始めたサッカーを続けるために、地元の中学校を卒業後、福岡県の東福岡高校に進学しました。高校の1学年先輩に長友佑都選手がおり、同じように東京の大学に進学したいという気持ちも強かったのですが、高校の先生に鹿屋体育大学のスポーツ推薦を受けてみないかと言われ、地元鹿児島ということもあり、受験を決めました。

なぜ新聞記者に?

下野 中学を卒業して県外の高校に進学したので、鹿児島の友達とも疎遠になっていたのですが、高校3年生の時に東福岡高校サッカー部の主力メンバーは鹿児島県人が多いという話題を南日本新聞で取り上げてもらったところ、久しぶりに中学時代の友達や知り合いから連絡がきて、反響の大きさを体感したことをずっと覚えていました。生意気にもプロの選手になりたいと思っていたのですが、実際には無理だということにやがて気付き、新聞記者になってスポーツを取材する仕事に就けたらと漠然とですが思っていましたので、試験を受けてたまたま入れたという感じです。

鹿屋体育大学の魅力は何だと思いますか。

下野 競技に集中できる環境だと思います。ストイックに頑張った人は、プロになれるということを実際に見てきました。学生時代、世界を舞台に活躍している人たちと一緒に授業を受けて、刺激を受けることも多かったです。

体育大の卒業生でよかったと思うことは?

下野 サッカー部の塩川勝行監督やバレーボール部の濱田幸二先生、自転車競技の黒川剛先生など、取材の現場でも母校の先生方や卒業生、在校生とつながりを持てることです。後輩がJリーガーに内定したときは大学まで取材に行きました。平成30年にはインドネシアのジャカルタまで「第18回アジア競技大会」の取材に行かせてもらい、体操競技部の前野風哉さん、自転車競技部の橋本優弥さんと卒業生で東京五輪への切符を獲得したお兄さんの英也さん兄妹にも取材して紙面で大きく紹介しました。東京オリンピックは1年延びましたが、体操競技部の杉野正尭君にチャンスがあるのではと期待しています。

今後の夢は?

下野 異動で運動部に来たときは、東京五輪の取材はベテラン記者がやることで、自分にはおこがましいと思っていました。思いがけず7年目に入り、スポーツをしていた頃、選手としては遠い存在だったオリンピックに、報道という立場でそこに立てるチャンスがやってきたので、そのチャンスをつかみたいと思っています。会社としてはスポーツだけをやれればいいということではないことも理解していますが、現在入社の動機になった仕事をできているのは本当にありがたいです。

最後に後輩たちにひとこと。

下野 僕は高校も大学もスポーツで選んだので、はたから見たらスポーツバカに見えるかもしれませんが、スポーツを通して学んだことや積み重ねてきた経験は、仕事をするうえで生きていると感じます。厳しさに耐えることや、困難を克服するためにどうすればよいかを考えて練習を続けてきたこと、体育大でいろんな仲間たちと切磋琢磨するなかで身につけてきたことは、将来きっと役に立つと思います。今やっていることは決して無駄にならないので、自分を信じて一生懸命頑張ってほしいですね。 

(取材・文/西みやび)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。