アスレチックトレーナー
兼平 智孝さん

かねひら・ともたか。1984(昭和59)年5月18日生まれ。岩手県出身。岩手県立黒沢尻北高校卒業。総合学園ヒューマンアカデミー仙台校スポーツカレッジスポーツトレーナー専攻、自由が丘能率短期大学通信教育課程ビジネス強要コース卒業後の2006年4月、鹿屋体育大学体育学部体育・スポーツ課程に3年次編入学。2008年3月卒業。株式会社h-Field代表取締役。JSPO-AT、 CSCS、 NSCA-CPT、 NASM-PESなど20以上の資格を有す。JOC医科学強化スタッフ、東北大学非常勤講師も務める。
今回の卒業生は、今年6月に「ソフトテニスは身体で強くなる」という書籍を出版した兼平智孝さん、アスレチックトレーナー(以降ATと表記)だ。NSCA(全米ストレングス&コンディショニング協会)の様々な資格やJSPO(日本スポーツ協会)のATなど20以上の資格を持っている。日本オリンピック委員会の医科学強化スタッフとして働く一方、大学や専門学校の非常勤講師としての仕事もある。さらには昨年、法人を立ち上げ、現在は株式会社 H-Fieldの経営者でもある。
しかし、ここまでの道のりは決して直線短距離だったわけではない。盛岡市立見前中学時代にはソフトテニスで全国優勝を団体で成し遂げ、岩手県立黒沢尻北高校時代は県内ではトップクラス。将来は体育大学に進んで体育教師になる夢を抱いていた。ところが好事魔多し。進学するはずだった大学の監督が交代したことにより推薦枠から外れてしまったのだ。一浪して予備校に通う中、スポーツトレーナーという道があることを知り、専門学校、さらには通信制の短大で学び始めた。そんな時に目にしたのが、運動生理学の教科書に書いてあった鹿屋体育大学竹倉宏明博士の名前だった。自分が体験してきた気合と根性の練習とは異なる運動生理学の理論に魅せられ、3年時からの編入で鹿屋体育大学に入学。電子顕微鏡をのぞく日々が始まった。しかし、すぐに研究の世界の厳しさを実感し、自分の考えが「甘かった」と知ることになる。来る日も来る日も続けられる電子顕微鏡での筋線維観察はミクロの世界そのもので、自らが描いた臨床の現場とは全く違うものだった。ここで兼平さんは改めて気づくことになる。自分がやりたいのはスポーツの現場の仕事であると。かつてはATの資格を鹿屋体育大学で取得することも可能だったが、あいにく兼平さんが入った前年に廃止されており、そこからはまさに自力での勉強と研究の日々が始まった。
兼平さんがATを本格的に目指し始めた頃、米国のアリゾナにスポーツ選手の怪我を治療し、そこからリハビリ、さらにはトレーニングを一貫して行う施設、「アスリート・パフォーマンス(現EXos)」が作られた。ここには米国のプロ選手だけでなくドイツのサッカー代表など世界中からトップアスリートが訪れていた。この施設には選手のリハビリとトレーニングをサポートするATたちがいた。筆者もここで2012年に腰痛を抱えていた室伏広治選手がロンドン五輪を前に咲花正哉ATと共にトレーニングをする様子を取材したことがあるが、咲花正哉氏だけでなく、阿部勝彦氏も花形ATとしてこの世界では注目を浴びる存在だった。
兼平さんが目指したのは、こうした傷害を負った選手のケアからリハビリ、さらに強化までの過程をサポートするATだった。栄養からトレーニングまで米国や日本の資格を20以上も取得。ソフトテニス、サッカー、ラクロス、硬式野球などの選手をサポートするようになり、個人では、ソフトテニス初のプロとなった 船水颯人、パリオリンピックで銀メダルを獲得したスケートボード女子ストリートの赤間凛音にも寄り添ってきた。さらには2023年の中国杭州アジア競技大会では、ソフトテニス日本代表のトレーナとして、国別、ミックス、男子個人の金メダル獲得を下支えする機会に恵まれた。
兼平さんはATの面白さをこう話した。「マイナスになっている部分をゼロにして、プラスにしていく過程ですね。選手に寄り添い、意見を交わしながらよい信頼関係を築き、最終的に結果に結び付けていくところですね」。
そしてついに昨年、自らの法人を立ち上げ、株式会社 H-Field(H-Field SportsPerformance Center)の経営を始めた。目指すはアリゾナのアスリートパフォーマンスの仙台版だ。その施設で、傷害の治療、リハビリ、さらには強化を行っていく。
さらに中学生向けにベースボールマガジン社で連載していたコラムを基に今年、本も出版した。やるべきことが整ってきたという状態だ。
「今後はもう一つ組織を作って、子どもたちがのびのび身体を動かしスポーツができる仕組みづくりをしていきたいですね」と抱負を語る。
鹿屋で気づいた自らがすすむべき道。ひたすら走り続ける41歳だ。