日本で唯一の国立体育大学

国立大学法人 鹿屋体育大学 KANOYA

株式会社Sign.O代表取締役

斉野 洸士朗さん

さいの・こうしろう。1989(平成元)年4月6日、鹿児島県志布志市生まれ。鹿児島県立志布志高等学校から鹿屋体育大学スポーツ総合課程に進学。2013年3月、卒業。KKB鹿児島放送、株式会社Gunosy、AnyMind Japan株式会社を経て、独立。株式会社Sign.O代表取締役。

メディア最先端をプロデュース

人が好き。「その人のためになるなら・・」と考えてやってきたことが、今のキャリアにつながっている、と話す。時代のメディア最先端を駆け抜けながら、根底に薩摩隼人らしいやさしさがのぞく。「頑張り屋さんでユーモアもあって素晴らしい人物」「とても活発で、将来企画力を発揮しそうなタイプだった」と、学生時代、予備校時代の斉野洸士朗さんの恩師が絶賛するのもうなずけた。東京の貸しスタジオで、クライアントの商品を撮影中の現場を訪ねてのインタビュー。仕事のパートナーに恵まれて、多くのスタッフと生き生きと仕事をする姿が印象に残った。

卒業後はテレビ局に就職されました。超難関の倍率を突破できたのは?

斉野 学生時代から、外に対して積極的にアプローチして何かを変えようというタイプでした。サッカー部に現在スポンサーが何社かついていると思いますが、1社目の南洲農場との契約のスタートって、実は僕だったりするんですよ。サッカー部が全国大会に出場してもお金がなくてだれも応援に行けない現状を目の当たりにして、スポンサー契約を思いつきました。隅野美砂輝先生に相談して南洲農場に同行してもらい、スポンサー第1号になっていただきました。

営業力に期待しての採用だったと思うのですが、テレビ局を3年半で辞めたのは?

斉野 入社して3日で東京支社の配属になり、キー局や大手広告代理店に同期の仲間ができて、自分の仕事の領域をもっと大きく広げたいと思うようになりました。すでにテレビの独走時代は終わりつつあり、テレビとデジタルが融合する時代がくると思っていたので、3年後、5年後にキー局からも必要とされる人材になるために、デジタルについて学ぼうと思ってGunosy(グノシー)株式会社に転職しました。その次はSNSだと思っていたときに、タイミングよくAnyMind Japanからオファーをいただきました。新しい動きにスピーディーに対応できる会社が世の中に必要になると感じていましたので、テレビ・デジタル・SNSの専門的知識を身に付けた上で、昨年独立しました。

現在の仕事内容をひとことで言うと?

斉野 クライアントがその商品をだれに売りたいのか、といったようなヒアリングから始まり、マーケティング、プランニング、PR、インスタグラムやホームページの出し方までトータルでデザインする仕事です。カメラマンやスタイリストなど、その世界のスペシャリストと一緒になって商品の価値をつくりあげていくのも役割のひとつです。今や会社に所属していることは必須ではなくなってきているので、フリーランスとして活躍している人たちと組んで仕事をしています。

ところで、鹿屋体育大学に進学しようと思ったのは?

斉野 幼稚園からサッカーをやっていたので、小学生の頃から鹿屋体育大学のお兄さんたちと一緒にサッカーをやらせてもらっていました。NIFSスポーツクラブができる前の話です。体育大の学生はとにかくカッコよくて尊敬していたし、ずっと憧れがありました。現役合格は果たせなかったので、両親に頼んで1年浪人させてもらいました。でも浪人したおかげで考え方が随分成熟して、今日のキャリアにつながったと思っています。

後輩たちにアドバイスがあれば。

斉野 就職活動に有利なのは一般的には高学歴なんですが、最終的には4年間何をやってきたかが明確な方が結果的に有利な気がしています。アスリートとして4年間頑張った熱量の差というのは間違いなくあって、そこさえうまくアピールできれば、体育大生の就職って実は怖いものはないんじゃないかと思うんですよ。今はユーチューブやツイッターでいくらでも情報収集ができるので、ぜひとも自分で調べて知識を深める習慣を身に付けてほしいです。僕は親父に「もっと世界を知れ」と言われていたこともあり、就職に際してはとにかくたくさんのOBに会って、いろんな話を聞きました。学生はともすれば指示待ち人間になりがちです。視野を広げることを常に意識して、自分の力で道を切り拓いていってほしいです。

最後に斉野さんの夢を聞かせてください。

斉野 僕は今の経営者はプロサッカー選手と同じだと思っているので、いかに早く結果をだせるかが勝負だと感じています。自分がかかわった商品が、世界規模で認知されるような力を発揮できる存在になりたいと思っています。生まれ故郷の鹿児島を拠点にしたいという気持ちも強いですが、2年後には自分のキャリアを海外でも生かせるようになっていたいですね。

(取材・文/西 みやび)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。