日本で唯一の国立体育大学

国立大学法人 鹿屋体育大学 KANOYA

「跳べない主将」の汚名を返上した、と学生時代の濱中良さんを知る後輩から聞いたことがある。鹿屋体育大学陸上競技部時代、歴代そうそうたるメンバーが名を連ねる主将に就任した。自分の記録をどうやって伸ばすかをテーマに卒論を書き、練習に励んだ結果、全国大会出場を果たせたというから、たゆまぬ努力の成果であったことは想像に難くない。さぞかしストイックな努力家と思いきや、どこにその熱量が隠されているのかと不思議に感じるほどやさしくて穏やか、さわやかな笑顔が印象に残った。修士課程時代に『鹿屋体育大学での4年間が充実する秘密の書』の企画・編集に携わるなど、アイデアマンでもある。昨年3月、連携大学院の「論文博士取得支援プログラム」を活用して博士号を取得した。大学教員は天職と迷いのない目で言い切る姿から、溢れんばかりの充実感が伝わってきた。

濱中先生は学部も鹿屋体育大学のご出身です。なぜ鹿屋へ?

濱中 一人暮らしをしてみたかった、というのがまずありました。実家が京都で、関西には私立大学がたくさんありますから、家から出るために国立に絞りました。中学生の途中から陸上競技の三段跳をやっていて、高校でもうやり切ったつもりになっていたのですが、同級生がインターハイで日本一になったのを見て、同じように練習してきたのに自分は努力の仕方が間違っていたのかなと思い、もう一度挑戦したいと思っていたところ“国立大学唯一の体育系単科大学・鹿屋体育大学”が目に留まりました。私自身はそこまで競技力が高い選手ではなかったので、推薦入試での合格は厳しいだろうと思い、推薦で受験してダメだったら一般入試で再受験しようと思っていました。推薦入試の受験は大学の下見も兼ねていたのですが、大学自体は田舎にあるけれど、ほのぼのとした雰囲気がすごくよさそうだなと思ってとても気に入ったので、結果的に推薦で合格できて、とてもうれしかったです。

2024年3月に本学で博士号(体育学)を取得しました。連携大学院の「論文博士取得支援プログラム」を活用しようと思ったきっかけを教えてください。

濱中 米子工業高等専門高等学校で教員をしていたのですが、ゆくゆくは大学教員もいいなと思い始めると、どうしても博士が必要になってくるんです。そこで学部、修士課程時代にお世話になった金高宏文教授に相談したところ、連携大学院の論文博士取得支援プログラムの存在を知りました。

濱中先生が考える連携大学院の論文博士取得支援プログラムの良さは?

濱中 仕事をしながら受講できて、現地に行かなくてもオンラインで授業を受けられることだと思います。鹿屋体育大学の先生だけでなく、連携している熊本大学の先生や他大学の先生方からもご指導いただきました。さまざまな視点でご意見をもらえたことをとても感謝しています。本当に貴重な機会だったと感じています。

修士課程は一度社会に出てから再び鹿屋に戻ってこられたのですね。

濱中 大学を卒業するときに競技を続けたくて、大学院に行きたいと先生に相談したのですが、大学院は競技を続けるために行くところではないと言われて。確かにその頃は大学院で具体的に何かを勉強したいということもなかったので、その通りだと思いました。学部生の頃、3年次編入で28歳の方が入学され、とても楽しそうな姿を見ていたので、大学院は社会人になってから、行きたくなった時に行けばいいやと素直に思えました。修士課程は、関東に住んでいた時に試験を受けました。当時は(株)Link Sports、中学校非常勤講師、アルバイトを掛け持ちしながら、鹿屋体育大学のサテライトキャンパスが東京にあったので、サテライトにつないでもらえる先生の授業を受けていました。でも次第に物足りなくなってきて、普通の大学院生としてきちんと学びたいと思うようになり、再び鹿屋に戻りました

修士課程修了後は高専の教員を経て大学教員へ。博士号も取得して順調にキャリアを重ねています。連携大学院の論文博士支援プログラムを受講したいと考えている人へ、アドバイスをお願いします。

濱中 私自身が高専、大学の教員を続けながら博士号を取得しましたので、遠方だからとか現職中だから、と言った理由であきらめている方がおられたら、心配いらないのでぜひ受講されることをお勧めします。むしろ現役で体育の教員をやっているときって悩みや課題が多いと思うので、そのことについて深堀りできますし、研究課題としていろんな先生方から意見をもらえるというのはスキルアップにもなるので、現場の先生方の生の課題を研究の世界へ持ってきていただくこともいいのかなと思います。

鹿屋に行かなくても学べるのが連携大学院の論文博士取得支援プログラムの良さであると伺いましたが、論文発表等で鹿屋を訪れる機会もあると思います。濱中先生が感じている鹿屋の魅力について、教えてください。

濱中 とにかくご飯が美味しい、温泉がある、自然が豊か。他には何もない、というのも魅力のひとつなんだと思います。一番は人がよいということです。同級生、先輩後輩、関わってきた方はみんな魅力的かつ個性豊かな人ばかりで、鹿屋体育大学にはいい人が集まっているという実感はすごくありました。辺鄙な場所に大学あると分かっていてわざわざ行くという時点で、学生同士が大きな仲間というか鹿屋体育大生という強烈な共通点があるんだと思います。

京都先端科学大学での現在の研究内容を教えてください。

濱中 障がい者スポーツとしてではなく、一スポーツとしてパラスポーツを取り入れた授業についての研究をしています。高専に着任してすぐ、ある学生が研究室を訪ねてきてくれて「僕はスポーツは好きだけど、体育の授業は嫌いです。先生には僕みたいにスポーツは好きだけど苦手な人でも楽しめるような体育の授業をしてほしい」と言われたことがあって。私自身スポーツはできる方でしたし、苦手とか嫌だとかそれまで思ったこともなかったので、当たり前のように体育が好き・スポーツが好きという観点で授業準備をしていたことに気づかされて衝撃を受けました。改めて学生を見回してみると、確かに授業を楽しんでいる子たちばかりではないんです。ある時、ゴールボールという目隠しをして鈴の入ったボールをころがす競技を授業で取り入れてみたところ、参加者全員がとても楽しそうにしていて、それまで運動が得意な子と苦手な子に分かれていたわだかまりのような壁を崩せた感じがあったんです。今後はパラスポーツの魅力や教育効果についても、さらに研究を進めていけたらと考えています。

最後に濱中先生の今後の夢を教えてください。

濱中 成長し続けるっていうのがひとつの夢です。かつて就職の面接で「一番充実していたときはいつですか?」と聞かれると「今です」って答えていました。何歳になっても「今が一番充実しているときです」「今が一番輝いているときです」と、心から本気で言えるようにしておきたいと思います。昔は勉強ってそんなに好きじゃなかったんですよ。でも就活をし始めたころから自分が好きなことを知る、ということを意識しだしました。新しいことをするのが趣味なので、学び続けることができる今の職業って最高だなって思っています。

鈴入りボールを手に
京都先端科学大学のキャンパス内で

【プロフィール】
はまなか・りょう。1989(平成元)年5月28日、京都市右京区生まれ。京都市立西京高等学校から鹿屋体育大学体育学部スポーツ総合課程に進学、2011年3月卒業。2018年3月、同大学体育学研究科体育学専攻(修士課程)修了。2024年3月、同大学博士(体育学)学位授与。2012年10月~2014年6月、箕面市消防本部消防士。2014年8月~2015年3月、川崎市立玉川中学校非常勤講師。2016年10月~2018年3月、鹿屋体育大学教務課教育企画・評価室特任専門員。2018年4月~2019年3月、同研究員。2019年4月~2022年3月、米子工業高等専門学校教養教育科助教。2022年4月~2023年3月、鹿児島国際大学福祉社会学部児童学科助教。2023年4月~現在、京都先端科学大学健康医療学部健康スポーツ学科講師。

(取材・文/西 みやび)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです。